酔った勢いでの雑文なので、スルー推奨。
>愛情が無ければ、どんな人生を送ろうが、過ごそうが、どこで野垂れ死にしようが構わないものだと思います。
この言葉は私の頭の外にあったので、こんな考えもあるもんだなと衝撃を受けました。
優しい人なんだろうなと。知ってる人=愛情が少しでもあるになってると思うので、見ず知らずの人間に優しいか? となると話は変わってくるのでしょうけれど、それもないだろうし。
ただし、父の場合は子供の前では暴君のように振る舞い、看護師や親戚がいるときはあからさまに優しくなっていたし、子供を育てる金が惜しいと常に言っていたから当てはまらないと思います。
基本的に、他人のことがわかる、理解できると考えることが誤りだと気づかない人って多いですよね、自分も含めてですが。
好意については理解できたと思ってるほうが幸せだったり、よほどのことがないと裏切られないから、メリット>デメリットなんですけど、悪意、嫌悪感については、他人が自分をどう悪く思ってるか、考え出すとどんどん沼に嵌っていく気がします。まわりの人間見てても。
自分の意思で子供を作りながら、育てることは当たり前と思わず、看病してもらうのは当たり前に思っていたと断言できます。3年も看病すればわかります。
前述したとおり、他者の気持ちがわかるという妄想をとりはらわなければ人は幸せに生きられません。そもそも、人間の感情なんて白か黒の二択ではないのです。
”育てることは当たり前”、1%の当たり前と99%の当たり前ではない鬱陶しさ、
”看病してもらうのは当たり前”、99%の当たり前と1%の感謝が同居してた可能性のほうが高いでしょう。99%に目を向けてしまうと何も生まれない。
また、”自分の意思で子供を作りながら”という表現で、生まれてきたことへの感謝ができていないことがなんとなく伝わってしまう。私自身もそうだったからわかるのですが、この状況に陥りがち。自分が不幸であると考えてしまえばしまうほど。一般的なレベルの生活ができても脱却できないでしょう。
ある程度の幸せを感じられる環境で暮らしていると、どんな毒親に対してでも、(”お前の子育てのやり方、子供に対する態度や言動はともかくとして”)、まあ生まれてきて良かったし、生んでくれてありがとな(←謎の上から目線)という感情が多少なりとも生まれます。(ただし、親が死んでからのことが多い。それは、存命中は親の存在のせいで幸せになりにくという点もあるので、親が生きているうちに親に感謝できないのは一概に子供のせいだけではないと思っています。子の幸せを願うのが親のはずなのに、あいつは子供に対して負の側面しかない、という悲しい親子関係ですね。死がある程度清算してくれる、ってか死にしか頼れないって)
また、精神病患者になったからといって回復するとか、施設で働くなどで、社会貢献している人は大勢います。
これについては、わたしは言及したつもりはなく(というか読み飛ばしてしまっていた、反省)、精神病患者は早死にしろ! という意見は持ち合わせておりません。
生きればいいし、自由に過ごせばいいと思う。
ただ、親目線からすると、こいつ幸せに老後を暮らせないなら、早死にしたらいいんじゃないか? と思うこと自体は悪ではないと思います。
子の幸せを願うのが親の務めであれば、親に幸せな自分を見せるのも子の務めだと思うのです。
子供の寿命を親が決めたら、回復の可能性を見捨てることになり、許されるものではないと私は思います。
先述のと微妙に絡んできますが、寿命を決めてしまうことに対しては(それはできないことでもあり)反対というか同意していません。
ただ、生きるか死ぬかの状況になった時とかに、延命するかしないかの決断時にはいろんな要素が絡んでくるんだろうなーと。
例えば現在が酷く食糧難で、生きていたところで何の娯楽もない世界であれば、子供が風を拗らせた時など、このまま楽にしてやろうか、と考える親は居て当然だと思います。(もちろん生に拘るという選択を非難するつもりもありません)
現在は(かつての)寿命以降も生きていける世の中になってしまっているために、考えることが増えて面倒になったのかもしれませんね。
以上