ぐらんこ。の部屋(るーるるー♪)

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みんな勘違いしてる、バリアフリーとか

 あたしはダイバーシティ教の教徒ですから、「わいは頑張らねえ!」「わいは能力劣ってるから頑張っても成果があがらねえ」「ハンディキャップがあるから!」「親ガチャで散々だった(から現状しゃーないんや)」って人達の、「せやかて(工藤)わしらも、思う存分に、バリアがフリーで安心して暮らせる世の中を望んでるんや! (頑張ったり、能力あったり、世襲でウハウハだたりする人の納税力(等)のお世話になって)」って意見も尊重します。みんな違ってみんないい。

 

 なので、ここからは完全に個人的意見です。

 そりゃあ、障害あって奇声あげようが、足腰弱くて車いす生活してようが、眼が見えなかろうが、五体が不満足であろうが、同じように暮らして、あ~健常者に痺れる憧れるぅ! って思わない社会が一番かもしれない。

 

 けど、抜けてる視点があって、そのためのコストって誰が支払うのさ? って問題が一つ。

 酷い言い方だけど、金持ちが金に物を言わせて幸せに暮らすのって、凄く当たり前の話。健常金持ちだって、お手伝いさん雇ったりお抱えの運転手や執事メイドなどなど、健常庶民よりも楽な暮らし出来てて誰も文句言わない。

 で、奴らは結構な額を納税しておる。その税のおかげでなんとかやってけてたり、納税額で有利な状況になってる貧民は多い。感謝しろ。もしくは一人で生きろ。こういう制度でやってきた国じゃないとこ探せ。

 

 余程の金持ちでなんでも自分でやれる人以外、誰かの世話になってる、この視点を忘れるな。ばーか。

 

 2点目。

 障碍者、健常で線引いてるけど、完全に健常なんておらんから。それこそ怪我したら松葉杖生活なんて可能性の権化だし、眼が悪かったり、頭が悪かったり。手帳こそ貰えなくても、みんななにがしかのハンディキャップは背負って生きてる。それが個性だ。

 とあるせっかち病の人は、エスカレーターで立って乗れない。イライラするから。今までは良かった。けど、エスカレーターは歩かない! ってルールが出来た途端に不便、不満を感じる。隣に階段あったら、もちろん階段上るけど、デパートとか駅とか、エスカレーターOnlyの動線が結構ある。

 もちろん、エスカ止まって乗れない”いらち”は、誰も擁護してくれない。それはハンディでもなんでもない。個性の範疇。声を上げるのは我儘だから。

 けど、それって、飲食店で黙ってご飯食べられない、奇声を上げる子と地続きだ。どっかのボーダーで障害あるね、可愛そうだね、になって、どっかのボーダーでこいつは変な奴、我儘、健常だけど変人ってなってる。

 そのボーダーは、強固なものは手帳の有無になるけども、実際は軽度の手帳持ちよりも、重度の手帳無しのほうが生きづらかったりするのがありふれてる。

 まして、手帳の有無抜きにしたら、こいつは可哀そう、こいつは我儘っていう判断基準は人によってバラバラだ。

 手帳を振りかざすな。

 

 能力無くて、お金持ちみたいな暮らしができてない貧民は我慢してる。知能に障害ある人はしゃーないから別途だけど、体に障害ある人って、その分、知能労働の方面で頑張って、ハンディを克服して大金持ちになって、お抱え運転手&リムジンと常時ヘルパー何人っていう生活獲得できなかったのって、努力不足でもありゃしませんか?

 確かに、頑張っても大金持ちになれない人は沢山居て、でもそれって、障害健常関係ないよね。なんなら、ど貧民健常は、中流健常や中流障碍者を羨ましく思いつつも文句も言えずに生きている。

 

 こういうこというと、じゃあ結局強者生存の理論で行くの? ってツッコミあるとは思うけど。頭使って考えたら、どこまでがバリアをフリーにすべきか、できるか。どこから以上は現状の日本の、世界の、科学力なりなんなりのリソースで無理だよね? ってわかると思う。

 ってか、ほんまもんのアホが分からずに声を上げてるか、わかったうえで、(氷河期世代を救うより)障碍者に金使え! ってリソースの取り合いしてるだけ。

 

 今生きている。3食じゃないかもしれないが、栄養失調にならずに飯食えてる。娯楽もある。それで満足しろとはいわないけど、まずそれをありがたがれよ。そのうえで、御国さんはお金もなく厳しい状況だとは存じ上げますが、これこれこうゆうふうに困ってる人が居るのでそちらにリソース割くこともご一考ください、ぐらいの姿勢で言え。

 

 ほんとに。ひとりで大きくなれたと思てるのかなぁ。みんな。

 

  公共交通機関バリアフリーが進むのは良いことだけど、それって結局、わかりやすい、アピールしやすい、要望しやすい等々の要因で優先されただけであって。

あと、子連れのベビーカーとか足腰弱った老人向けとか効果範囲が広いから。

 

 うちも家族に障碍者数人おるけど、みんな不便感じて暮らしてるけど、どうやってアぴったらいいかもわからんし、賛同者も少ないだろうし、その人達向けの対応ってめっちゃピンポイントで――それこそ、飲食店で騒いでもいいように全飲食店に個室作れとか――、社会との折衷案を見つけてなんとか暮らしておるよ。贅沢いわんかったら生きていけるだけで幸せだって考えて(そう思うようにして)

 まあ、最終目標はそういう人らや家族含めて不便感じずに暮らせるのが一番だけどね。けど、普通に貧民健常とかが、不幸せでしか生きれない国で、自分らだけ幸せに、他を犠牲にして、我儘通してやりたいようにやらせてくれってのもなんか違うじゃん?

 

 ※上記文章は、知人から聞いた話を多少脚色したり自分の意見入れながら書いたもので、文責はこのブログ主にありますが、ブログ主の真なる思いとは違う点もございますので、まあ読む人いないでしょうけど、あたしに突っ込まれても困ります。